imagesあの国が近代国家ではないことの証となる新聞記事と思います。

ただ、国民がそのような国家体制を変更しようと強く思っていないところにその原因がある、とも思います。

私たちも、自分たちの国の形、政府のあり方について、つねにしっかりとみておかねばならない、と、思います。


朝日新聞から

「側近」切り捨て、容赦なし 習主席の判断めぐり衝撃

 中国共産党で特別な地位を築いた習近平国家主席。反腐敗運動を利用し、権力基盤の確立に動き始めた。「身内重用」との不満もくすぶるが、誰も表だって批判できない。

 今年9月9日午前、中国の習近平国家主席は、にこやかな表情で子どもたちと会話を交わしていた。
 「教育が今の人類を、そして、未来の人類を決めることになるのだ」
 自らが小中学生時代を過ごした北京にある人民解放軍系の母校、八一学校を訪れた習氏はご機嫌のようだった。白いワイシャツ姿で校内のサッカー場に足を運び、自らの小学校時代の通信簿も見たという。
 それから人民大会堂に移動し、ロシア要人と会見した後、習氏の動向についての公式発表は途絶えた。
 次に習氏が公の場に姿を現したのは13日。国防省や中央軍事委員会が入る「八一大楼」で行われた軍の関連行事に、習氏は厳かな表情で、礼服の中山服を着て登場した。
 習氏の動静が数日間伝えられないことは決して珍しいことではない。ただ、この間に、北京から南東に百数十キロ離れた天津では異変が起きていた。
 9月9日午後、天津市共産党委員会の代理書記で市長を兼ねる黄興国氏が、台湾要人の訪問を出迎えた後、姿を消したのだ。
 「突然のことで、本当にびっくりした」。ある天津市当局者はそう振り返る。
 腐敗高官摘発を進める党中央規律検査委員会のサイトに「黄氏を重大な規律違反の疑いで調査している」との短い発表文がアップされたのは、その翌日10日の夜10時すぎだった。
 黄氏は習氏の浙江省時代の部下で、「側近の一人」とも言われた人物。習氏がどのような気持ちで黄氏の失脚を決めたのか。反腐敗の名の下、黄氏を切り捨てた習氏の判断をめぐって、北京の外交筋の間には衝撃が広がった。
 2003年、黄氏は浙江省寧波市の書記から天津の副市長に転出。2014年に代理書記へと順調に出世の階段を上ってきた。約200人いる党中央委員の一人だったが、党指導部にあたる政治局員(現在は計25人)のポストである天津市書記に昇進すると見られていた。
 雲行きが怪しくなったのは、昨年8月、天津港で起きた160人超の死者を出す大規模な爆発事故。要人たちが非公式に集まる北戴河会議の直後という「政治的に敏感な時期」(地元当局関係者)の大惨事だけに、この関係者は「あれで黄氏は終わった」と語る。
 黄氏は習氏への忠誠を露骨に訴え、今年1月には党内で先陣を切って習氏を「党の核心」と呼んだ。だが、書記への昇進はなかった。「代理」の肩書が2年近く続いた末の失脚。直接の摘発容疑は、寧波時代から親しかった業者との癒着によるものとされる。