あの戦争の総括、わが国ではきちんとなされているのでしょうか。
ドイツの様子を知れば知るほど、わが国の戦争責任について、特に、あの時代の指導者側、統治者側の、日本国民への反省と責任が明確になっていない、と、思います。

小林多喜二だけでなく、多数の市民が犠牲になったと思います。

市民生活を取り締まった、特高警察の職員、特に、責任者ですが、もちろん、末端の現場職員も含みます。
きちんと、その責任を追及され、きちんとそれを負ったのでしょうか。
小林多喜二を死に至らしめた担当の警察官たちは、その責任を問われたのでしょうか。

戦争中は、思想や政治についての取り締まりは、軍隊の警察機構であった、憲兵の役割も大きかったのではないでしょうか。
市町村にいた、徴兵に関わる一般公務員も。どの家の誰を徴兵するか、恣意的に決められていたケースがあったのではないか、徴兵者を決定するプロセスが明らかになっていないかも。

市民をあの戦争に駆り立てた社会の仕組み、その責任を明確にすることが大切と思います。


毎日新聞から

小林多喜二:最期、生々しく…隣室収監の学者が書簡に記す

 プロレタリア作家、小林多喜二が1933年に築地署(東京都)で獄死する前後の様子を、同時期に収監されていた生物学者、石井友幸(1903〜72年)が記した書簡が見つかった。拷問で口を利くことができなくなっていたことや、死亡後に人工呼吸が施されたとみられると書かれている。多喜二について研究している北海道小樽市の小樽文学館は「極めて貴重」としている。

 ◇栃木の小説家旧宅で発見
 書簡は、石井が多喜二と交流のあった小説家、江口渙(かん)にあてた計3通で、400字詰めの原稿用紙計5枚とはがき1枚。1962〜67年に、やり取りがあったとされる。
 文学館によると、多喜二の死の前後については、遺言をしていたり監房で死亡していたりといった諸説がある。しかし、石井は書簡の中で、多喜二は「ひとことも口をきかなかつたように思います」と記し、監房とは別室で死亡したか「あるいは保護室にいれられるまえに息をひきとつていて、彼ら(警察医)は申しわけ的に人工呼吸などしたかも知れません」と証言している。
 石井は思想犯として、多喜二の隣の監房に収監されていた。書簡には詳しい見取り図が添えられ、多喜二が第2房から石井が入っていた第1房の向かいの保護室に移されたと記されている。文学館の亀井志乃学芸員は「他の証言ではあやふやだった位置関係が詳細にわかる」と話している。
 書簡は、栃木県にある江口の旧宅を調査していた郷土の歴史研究会が発見。昨秋、文学館に連絡があり、確認作業を進めていた。18日から文学館で公開される。
 多喜二は1903年に秋田県で生まれ、4歳で小樽市に移住した。銀行に就職後、「蟹工船」「不在地主」などを発表。特高警察の拷問を受けて死亡した。