インターネットの中では、以前から、嫌韓、嫌中、というか、近隣諸国を激しく攻撃する、極端な主張は存在していて、気にはしていたのですが、インターネット限定の、特に、匿名での意見表出は、それほど心配ないか、とは思っていました。
でも、昨今では、それが、社会への具体的な影響になり、そして、そのような考えの政治的な動きにもつながってきたように思われ、少し、心配しています。

日本人としての自分は、もちろん、やはり、自分の心の中にあるナショナリズムの存在に気付いていますし、自分が属する国や民族が一番優れている、と感じたい、という、素朴な欲望というか、安心感というようなものがあることにも気づいています。

アジアの国が、ヨーロッパのように、互いに団結し、互いに協調して、外部と交わる、ということは、1つの形だと思っています。もちろん、EUにおけるドイツやフランスのように、アジアや東アジアにおける共同体における、リーダーとしての姿を、自分の国に期待していることは当然ですが。
アジア、特に、東アジアの国、日本、中国、韓国、台湾などですが、これらの国が、有機的に連合し、相乗効果をしめす存在になれば、欧米の国々にとっては、それは、脅威以外の何者でもないでしょう。

つまり、日本、中国、韓国、台湾などが、互いに牽制しあい、不信を持つこと、は、欧米諸国にとっても利益になり、そのような状態を醸成するように戦略的に働きかける、というのは、それらの国の諜報機関にとって、重要な使命になっているのではないか、と、思っています。
以前、日米の経済摩擦での交渉のときなど、アメリカのCIAなどが、日本政府だけでなく、主な日本企業の動静について調査をしていたことは、有名な話です。つまり、経済問題にも、これらの諜報機関は関わってくるということです。

私は、東アジアの国々が、必要以上に互いにいがみあうことは、お互いの経済的利益から考えても、好ましくないと思っています。どのような評価基準で、「必要以上」なのかを判定するのは、とても難しいというか、立ち位置によっても変化する、相対的かつ連続的な変化量についての判定だなあ、って思いますが。
でも、日本、中国、韓国などがギクシャクする状態を、ほくそ笑んでいる勢力があるということです。それは、われわれの国の外にあるのは当然ですが、また、それぞれの国々の中にも内在しています。私たちは、そのことも知らなければなりません。

もちろん、隣の国同士ですから、地理的に、歴史的に、今の流行りの言い方なら、地政学的に、互いに影響を与え、そして、問題を抱えてきたことは当然のことです。そのことを忘れてしまえ、と、言っているのではありません。
でも、それなら、世界史の授業で学んだように(なぜか、日本の学校教育で学ぶ「世界史」とは、欧米の歴史教科書の内容そのものであったりするので、特に、ヨーロッパの歴史において)、ドイツとフランス、フランスとイギリス、イギリスとスペイン、と、ヨーロッパの国々の間でも、ずっと、歴史的に、いがみあい、時には、戦争も繰り返してきたのですが、今のヨーロッパの共同体は、それを乗り越えての超越的な存在ですね。

国同士が、いがみ合うことなく、互いを信頼して、言うべきことは主張し、という、建設的な関係を持つこと、これは、この小さな地球という天体に住むわれわれにとって、不可欠の住み方、と、思うのです。

さて、国同士がいがみあっていても、国民同士の草の根交流があれば大丈夫、という考えがありますが、それは、楽観過ぎると思います。
歴史をひもとけば、あの、日本とアメリカとの大変な戦争の前も、地道な草の根交流の素地がありました。有名なのでは、尾崎行雄東京市長からワシントンに送られた桜の苗、今は、すばらしい桜の名所になっています。互いの学校同士で人形を交換したこともありました。日本からは日本人形、アメリカからは「青い目の人形」。昔、5000円札になった、新渡戸稲造は、日米をつなぐ太平洋の架け橋になりたい、と言っていたそうです。両国に、そのように考える人々が少なからずいたのです。
それでも、あの互いに憎しみ合うまでの戦争にまでなってしまいました。

大事なのは、互いに、どのようなリーダーを選出するか、ということと思います。
国民を煽動し、過度にナショナリズムをかき立てるような言動をする政治家をリーダーにすることには慎重にありたい、と、願っています。