私の祖父は、小さな町の町会議員をしていました。
いわゆる、保守系無所属、という立場でしたが、この田村元さんの応援を熱心にしていましたことを、子どもながらによく憶えています。
また、私が大人になってからは、自民党の中での重鎮、長老として、共感を感じる、重みのある発言をされておられ、信頼していました。

ご冥福をお祈り致します。

この間まで、厚生労働大臣だった田村憲久議員は、息子さんではなく、甥にあたり、後援会組織などを引き継いだ、いわゆる世襲議員ということにはなると思いますが、きちんとあとをつがれたと思います。
田村憲久議員は、最近、石破茂さんのグループに加わった、と聞いていますが。


朝日新聞から

元衆院議長の田村元さん死去 労働相や通産相を歴任

 自民党の元衆院議員で、衆院議長を務めた田村元さんが、1日、老衰のため東京都渋谷区の病院で死去した。90歳だった。近親者で密葬は営まれた。12月に都内と三重県松阪市で「お別れの会」を開く予定。連絡先は女婿の盛山正仁・衆院議員事務所。前厚生労働相の田村憲久・衆院議員は、おいにあたる。

 1955年に30歳で初当選。旧三重2区から連続14回の当選を重ね、1996年に引退した。
 田中内閣(1972年)で労働相として初入閣。その後、福田内閣(1976年)で運輸相、1986年から中曽根・竹下両内閣で通産相を歴任し、貿易摩擦などに取り組んだ。1989年に衆院議長に就任した。


読売新聞から

「タムゲン」の愛称…元衆院議長の田村元氏死去

 元衆院議長の田村元氏が1日午前8時頃、老衰のため東京都内の病院で死去した。

 90歳だった。葬儀は近親者で済ませており、後日「お別れの会」を開く。
 田村氏は、慶大卒業後、参院議員秘書などを経て、1955年の衆院選で旧三重2区から初当選し、当選14回を重ねた。第1次田中内閣で労相として初入閣し、福田赳夫内閣の運輸相などを歴任。1989年6月から1990年1月まで衆院議長を務め、野党が多数を握る参院との調整などに、自民党で腕を振るった。
 一方で、政治献金制度の禁止を提唱し、死刑廃止を推進する議員連盟会長として死刑の執行停止を訴えるなど、政策面でも独自性を発揮。「政界のご意見番」的存在として「タムゲン」の愛称で親しまれた。1994年、勲一等旭日桐花大綬章を受け、1996年に政界を引退。地盤をおいの憲久氏(前厚生労働相)に譲っていた。


毎日新聞から

田村元氏死去:辛口の政界ご意見番

 「自民党のご意見番」と呼ばれ「タムゲンさん」の愛称で親しまれた元衆院議長の田村元さんが亡くなった。現職時代から定評のあった辛口の政界批評は、引退後もたびたびマスコミに取り上げられるなど、「政治腐敗」を嘆きつつ、90年の生涯を閉じた。

 ◇「反金権」の田中派重鎮
 1955年の衆院選で旧三重2区から全国最年少議員(30歳)として初当選。その選挙運動で、選挙区内を駆け回った時に使った原付きバイクは、「初心忘れるべからず」と、毎年正月にしめ飾りを付け替えて、三重県松阪市内の事務所に飾っていた。
 衆院議員在職41年余り。運輸相時代は成田空港の開港、通産相時代はココム違反問題の処理に奔走した。
 大野派や田中派などに所属したが、派閥になじめず、「一匹オオカミ」といわれた。田中派では、派の重鎮でありながら、たびたび田中角栄氏と意見対立した。自身が関わり、不成功に終わった自民党総裁選での総理・総裁分離案提案や、「二階堂擁立劇」については引退後、「田中金権政治に反発してやったが、当時、絶対的な力を持っていた角栄さんに事前に漏れてしまった。ほろ苦い思い出」と話していた。
 引退後の2001年春には、森喜朗首相退陣をめぐる自民党の混乱について「情けないの一言。この期に及んで、派閥次元の愚かなことをやっている」と嘆いた。
 現職時代は終始、金権腐敗を批判したが、実弟が三重県建設業協会長を務めるなど建設業界の実力者だったことなどから、選挙戦では逆に、相手陣営から金権選挙と言われた。これに対して「弟の会社の株は1株も持っていないし、献金も受けたことがない。(実業家から政治家に転身した)藤山愛一郎さんも清らかな人だったが、大財閥ゆえに批判された。選挙戦とはそういうもの」と反発していた。